D.C.~ダ・カーポ~アーカイブス SAKURA Editionを手に入れた

D.C.ダ・カーポアーカイブス SAKURA Editionを手に入れたので、D.C.の全作品の「ちゃんとした」感想を残していこうかなと思う。暇なので。

もしかしたらこのページをたびたび更新して、インデックスとして使用するかもしれない。

ポール・オースター『ムーン・パレス』

 読んだ。忘れないようにメモをしておこう。

 オースターはやっぱり小説がうまい。

 三つの物語が語られる。

 MSの話、エフィングの話、バーバーの話。

 小説をよく読む人間にとって、バーバーの物語は、『ムーン・パレス』の行く末を暗示するもののように思える。

 だからバーバーがMSを殺し、その報いを受けて死ぬ、という筋を、終盤で想像するだろう。

 しかし、そうはならない。

 この小説は徹頭徹尾偶然で駆動する。

〈この小説ではすべてが偶然によって起きるのだ〉とMSはバーバーが書いた小説を読んで思う。

 偶然だけでできた小説は、やっぱりちょっと不味い。そんなのどうとでもできるからである。

 しかし、エフィングとバーバーの物語を入れ子にすることにより、この物語はそれに沿うようにして進んでいくのだ(実際にも半分くらい正しい)、ということが、読者にとっての必然性を生み出している。それはメタ必然というものかもしれない。

 オチはよくわからん。

 小道具として月がいくつか出てくる。シラノ・ド・ベルジュラック然り、テスラ然り。

 もしかしてシラノの戯曲もなぞっているかもしれない。照らし合わせる気力はない。

倫理のよくわからなさ

 ウィトゲンシュタインは倫理をとても大事なものだとしていた。さらには、倫理は語りうるものではない、とも言った。

 語りうるものとしての「論理」

 語りえないものとしての「倫理」

 自らの言語の限界が世界の限界であり、その外側には語りえないものが広がっている。

 ということは、倫理というものは自らの外にあるということになる。

 そうかもしれない。

「常識的に考えてそれはいかんでしょ」と安易に言ってしまえる。しかし、「なにが常識か」「なぜいけないのか」などを考えると非常に難しくなる。

 とてもセンシティブな、堕胎についてどうなっているかみてみる。

日本産婦人科医会発行の指定医師必携には、母体保護法による人工妊娠中絶について記載があります。そこには人工妊娠中絶の適応などの説明とともに人工妊娠中絶後の注意と指導の項目に、排出内容とくに胎児の取り扱いは慎重に行う事として明記してあります。その中には、妊娠12週未満の胎児は、指定医師が処置することになっているが、これの処置は特に留意し、粗雑に陥らぬように注意する。妊娠12週以後の排出胎児は死産届による埋葬許可書をとらせ火葬させる。人工妊娠中絶実施後の妊娠12週未満の死胎児を含む胞衣の取り扱いについて、各都道府県の胞衣取り扱い条例の有無に拘わらず、分娩や自然・人工流産に伴う胎盤などの取り扱い、とくに妊娠12週未満の場合の子宮内容物についても、これをすべて胞衣の一部として処理することが必要であり、胞衣取り扱いを許可されている専門業者に委嘱して丁重に処理すべきものである。として、いわゆる胞衣の取り扱いについて示しています。

12週未満の妊娠中絶胎児の取り扱いについて

 わかりやすく箇条書きにすること以下の3つが書いてある。

・妊娠12週未満の胎児は、指定医師が処置することになっているが、これの処置は特に留意し、粗雑に陥らぬように注意する

・妊娠12週以後の排出胎児は死産届による埋葬許可書をとらせ火葬させる

・人工妊娠中絶実施後の妊娠12週未満の死胎児を含む胞衣の取り扱いについて、各都道府県の胞衣取り扱い条例の有無に拘わらず、分娩や自然・人工流産に伴う胎盤などの取り扱い、とくに妊娠12週未満の場合の子宮内容物についても、これをすべて胞衣の一部として処理することが必要であり、胞衣取り扱いを許可されている専門業者に委嘱して丁重に処理すべきものである

 ということで、妊娠12週未満であろうが、妊娠12週以後であろうが、どちらも特別な取扱いをしなければならないとしている。

 なぜだろうか? なぜ医療廃棄物として捨ててはいけないのだろうか?

 私たちはこういう問いを立ててもすぐに「あかんに決まってるでしょ」と言うだろう。しかしなぜ「あかん」のか、明晰に説明できる者はいない。

 ここに倫理のよくわからなさがある。

 倫理とはなんのためにあるのか?

 最低限「人間」であるため。人間を「人間」として留めておくためのもの。

 そのようなものの気がする。

 しかし人間は、ときにとても簡単に倫理を逸脱してしまう。「人間」とはそれほどまでに脆いものなのだろうか?「人間」とはそれほどまでに言語で捉えがたいのだろうか?

 そうかもしれない。

 だからこそ人間がかろうじて「人間」でありうることを重く受けとめたほうがいいのかもしれない。しかしそれが幸せなのかどうかはわからない。倫理を逸脱する人間がいなくなれば、たしかに幸せな世にはなりそうな気がするが……。

 

感傷について

 私はいつでも孤獨である。言語に絶えた恐ろしい悲哀を私一人でじつと噛みしめて居なければならない。生きながら墓場に埋められた人の絶望の聲を地上のだれがきくことが出來るか。
 私が根かぎり精かぎり叫ぶ聲を、多くの人は空耳にしかきいてくれない。
 私の頭の上を蹈みつけて此の國の賢明な人たちが斯う言つて居る。
『詩人の寢言だ』

萩原朔太郎「言はなければならない事」 

 萩原朔太郎はこう言うが、感傷は万人に開かれている。Twitterを開けばよくわかる。もしかすると、Twitterの(ある種の)人間は〈賢明な人たち〉ではなく、みな詩人だからなのかもしれないが、それぞれ特別な感傷を持っている。

 うまくいかない人生を抱えながら、それが一回性の人生であることにそれぞれの賢さで気づいて、悲しみを湛えつつツイートする。

 なにもかもで満ちたこの世界には、人生を明るく照らすものはいくらでもある。音楽、フィクション、アイドル、アニメ。しかし、それらがあまりにも眩しいからこそ、わたし自身の影に驚いてしまうときがある。だからこそ感傷的なポエムは眩しくない、夜や、月や、星のことばかりになってしまうのかもしれない。

 だが、それらもそれらで「光」だ。私たちは闇を闇のまま覗くことができない。

 大乘の感傷には、時として理性がともなふ。けれども理性が理性として存在する場合には、それは觀念であり、哲學であつて『詩』ではない。
 感傷の涅槃にのみ『詩』が生れる。即ち、そこには何等の觀念もない、思想もない、概念もない、象徴のための象徴もない、藝術のための藝術もない。
 これはただの『光』である。

萩原朔太郎「SENTIMENTALISM」

 ただの「光」としてのツイートがあるのなら、それは、夜や、月や、星と同じように受け止められるだろう。