感傷について

 私はいつでも孤獨である。言語に絶えた恐ろしい悲哀を私一人でじつと噛みしめて居なければならない。生きながら墓場に埋められた人の絶望の聲を地上のだれがきくことが出來るか。
 私が根かぎり精かぎり叫ぶ聲を、多くの人は空耳にしかきいてくれない。
 私の頭の上を蹈みつけて此の國の賢明な人たちが斯う言つて居る。
『詩人の寢言だ』

萩原朔太郎「言はなければならない事」 

 萩原朔太郎はこう言うが、感傷は万人に開かれている。Twitterを開けばよくわかる。もしかすると、Twitterの(ある種の)人間は〈賢明な人たち〉ではなく、みな詩人だからなのかもしれないが、それぞれ特別な感傷を持っている。

 うまくいかない人生を抱えながら、それが一回性の人生であることにそれぞれの賢さで気づいて、悲しみを湛えつつツイートする。

 なにもかもで満ちたこの世界には、人生を明るく照らすものはいくらでもある。音楽、フィクション、アイドル、アニメ。しかし、それらがあまりにも眩しいからこそ、わたし自身の影に驚いてしまうときがある。だからこそ感傷的なポエムは眩しくない、夜や、月や、星のことばかりになってしまうのかもしれない。

 だが、それらもそれらで「光」だ。私たちは闇を闇のまま覗くことができない。

 大乘の感傷には、時として理性がともなふ。けれども理性が理性として存在する場合には、それは觀念であり、哲學であつて『詩』ではない。
 感傷の涅槃にのみ『詩』が生れる。即ち、そこには何等の觀念もない、思想もない、概念もない、象徴のための象徴もない、藝術のための藝術もない。
 これはただの『光』である。

萩原朔太郎「SENTIMENTALISM」

 ただの「光」としてのツイートがあるのなら、それは、夜や、月や、星と同じように受け止められるだろう。